(1)粟田学区のなりたち
粟田学区は、北は左京区、東は山科区、南は弥栄学区、西は有済学区にそれぞれ隣接した区域です。明治2年の待ち組改正で、三条通に沿った市街地が下京二十五番組に編成され、のちに教業・長光の両町が所属し、改称を重ねて、昭和4年に粟田学区となりました。
「粟田」という名称は、平安時代以前から存在する古代の郷名で、のちに広く粟田学区域を指すようになりました。
東部には、京の七口のひとつである粟田口があり、平安時代の石山寺の参拝に利用されるなど、古くから京都の出入り口とされてきました。近代の三条通の拡張と京津電車の開通は、古くから交通の要所であるこの地の性格を継承しています。
そのほか都ホテルの開業と、大正元年の蹴上浄水場の開場は、学区西部の町並みを大きく変えましたが、面積の半分を占める山地と山麓の寺社は江戸時代からの雰囲気を今も残しています。
粟田学区の生業には、太鼓や楊枝・キセル製作があるが、特に粟田口焼の陶器は、江戸時代初期に瀬戸から陶工が移住して創始されたといわれており、古くは京都の特産とされていました。(参考文献:「京都の歴史」)